「学校に行きたくない」という子の声は取り上げられない
新型コロナウイルスの影響で、全国で続いていた学校の休校も各地で解消されつつあるようです。
ニュースでも「○○日ぶりの登校」といって、取り上げられているのを見ました。
学校再開の話題を取り上げたニュースでは、決まって小学校の児童のインタビューが流れていました。
「学校が始まってどうですか?」 「久しぶりに友達に会えてうれしいです。」 「みんなといっしょに勉強できてうれしいです。」
たいがい、こんな感じです。こう語る子どもたちの言葉にウソはないと思いますが、一方で違和感も感じたのです。
それは、インタビューを受けて答える子供たちの答えが、決まって「うれしい」というものばかりだったからです。
絶対「うれしくない」と思っている子どももいるだろうに、こうやって画一的な方向へ持っていこうとするメディアの確信犯的犯行が改めてはっきりしました。
「子供はこうあるべき」ありき
結局、「子供はこうあるべき」という観念が先にあるために、それに合わせた構成にしてしまうのです。
- 子どもは学校に行きたくて仕方がないはずだ
- 子どもは学校に行くのがうれしいはずだ
- 子どもは学校でみんなと元気に遊ぶべきだ
そういう子どもがいることは確かでしょう。大多数かもしれない。しかし、そうでない子どももいるはずです。
- 学校に行くといじめられるからずっと休校のほうがいい
- 給食がキライだから休校のほうがいい
- 体育の授業がイヤだから休校のほうがいい
- 家のほうが勉強に集中できるから休校のままでいい
こういう子どももいてもおかしくないと思うのですが、こうしたコメントを言う子どもがニュースで流れたのを、今のところ見たことがありません。
そういうコメントをする子どもがいても、きっとカットされているのです。なぜなら「あるべき子ども」像とは異なっているから。
学校に行くのがうれしいのが「まとも」であり、そうでないのは「まともではない」のです。
つくづく日本という国は、マイノリティーに冷たい国なのです。みんなと違う(まともな感性でない)とつまはじきにされる、それが日本です。
大人のエゴ
結局、「そう思い込みたい」という大人のエゴに過ぎないのです。
「子供たちが楽しそうに学校に行っているなあ。友達と会えてうれしそうだなあ。あぁ、やっぱり子供たちの元気な声を聞くのはいいなあ。こういう何気ない日常が大事なんだなあ。いいなあ。」
こうノーテンキに思いこみたいだけなのです。自分がそうあるべきと思う状況になるのを見て、自己満足したいだけなのです。それが評価されるものだから、テレビもそれに沿うような編集となる。だから、それから外れるものは見ないふり。
そして、インタビューを受ける子どもたちもバカではありませんから、どのようなコメントを求められているかを本能的に察知する。
そして、絵に描いたようなインタビューのやり取りが成立するのです。ニュースでコメントが取り上げられる子どもは賢そうなしっかりした子が多かったように思います。
延々と続くゲーム
ある種のゲームと言ってもよいかもしれません。
社会的に正しいとされているものはなんなのか、それを暗黙のうちに察知してそれに合わせた言動を取らなければならない。小学生でさえ、このルールを知っているのです!
社会的に正しいとされていることが、合理的なのかどうかは関係ない。あくまで、「みんなが正しいと思っている」と「みんなに思われていること」が重要なのです。
そして、こうしたルールが理解できずに、うっかり「本当のこと」をしゃべったり行動する人間は、「バカ」という烙印を押されて社会的に抹殺されるのです。
社会で生きるとは、そういうことだと言われてしまえばそれまでですが、つくづくそういうゲームに参加し続けるのがアホらしくなってきました。
そうした非生産的なゲームに人生の時間を浪費しないようにできるだけ社会から離れて生きる、それが「セミリタイア」であり「人生を<半分>降りる」なのです。