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人生とは、所詮は気晴らしに過ぎないのかもしれない

気を紛らすこと。人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらについては考えないことにした。ーパスカル

最近、人生について考えることが多くなりました。別に、大それたことを考えているわけではありません。

毎日、毎日、電車に揺られ会社に行く日々。家に帰れば、ほぼ寝るだけ。そして、朝が来れば、また出勤・・・

果たして、生きるために働いているのか、働くために生きているのか、よく分からなくなってきたのです。そうして、ぼんやりと「生きるってなんなんだろうなあ」と思い始めたという次第です。

なぜ、生きているのか、なぜ生きる必要があるのか。生きていることに何か意味はあるんだろうか・・・などなど出勤中の電車の中で考えています。信仰心の篤い人は、ここで信仰に目覚めたりするのでしょうけど、私はそんなものは持ち合わせていないしなあと思ったり。

人生とは気を紛らせているだけ

そう考えていくと、生きていることにあまり意味はないのかもしれない。人類もいずれは滅びるのだし、地球自体もいつかは消滅するときがやってくるのです。人類が存在したという痕跡さえもなくなる時がやってくるのです。だとすると、結局生きて何をしているのでしょうね。

生きるということは、この広大な宇宙の中で与えられた、たかだか100年足らずの時間を、どう過ごすのか、どう気晴らしをするかということのような気がします。

パスカルの言うように、結局は気を紛らしているだけなのかもしれないですね。もし、パスカルが現代に蘇れば、実に多くの時間と労力が「気を紛らすこと」に使われているかを確認して、自説に対する自信を深めることでしょう。

しかし、問題はその気晴らし、気の紛らせ方です。人生の時間は有限なのです。

人生で何をすべきか?

人生で何をすべきかは、わかりません。でも、何を「すべきではない」かは、はっきり分かるような気がします。

もし、明日でも、1ヶ月後でも、1年後でもよいのですが、死ぬとしたらと考えたときに、何をすべきではないかを考えていきますと、結構はっきりします。

まずもって、仕事や会社のことはどうでもよいですし、それに付随する飲み会にも行くべきではない。日本の将来、少子高齢化、税金の引き上げ、芸能人の不倫問題がどうなろうと構わない。それよりむしろ、残りの時間で、読んでみたい本を読みたいし、見たかった映画も見たい、行ってみたかった場所にも行ってみたい。

そうやって考えていきますと、大仰なことはスーッと遠景に遠のき、極めて身近なこと、自分に関する個人的な些細なことだけが、目の前に現れてきます。

人生の残り時間は以外と少ない

人生100年時代と言いつつ、すでに私の場合は約30年が過ぎています。残り70年として、そのおよそ3分の1は寝ているわけですから、残りはおよそ40年強くらいでしょうか。

そこから会社に行って働く時間が引かれるわけですから、1日12時間(通勤時間や残業含む)として、月に20日勤務で240時間。年間2,880時間。定年まで30年働いたとして、86,400時間。およそ10年分くらいに相当します。

それを差し引くと、のこり30年くらいでしょうか。これを十分とするか少ないと思うかは人それぞれかと思います。さらにこの30年をすべて享受できる保障はありません。事故や災害、病気でこの時間が与えられずに終わってしまう可能性も十分にあります。

人生の時間は有限です。すべての人に平等に死が訪れます。人によって、長い短いはあるでしょうが、その限られた時間をどう使うか、どう時間配分するかということが大事です。どうでもいいと考えていることに、時間を使ってしまうのはもったいないですよね。

セミリタイアは、その人生の中での時間配分を少し変えてやろうという試みなのです。会社や仕事関係に割り振られていた時間を、自分のための時間に振り替えてやろう、そういう試みなのです。

古代ローマ時代の哲学者のセネカもこう言っています。

生きることをやめる土壇場になって、生きるのを始めたのでは、時すでに遅しではないか。