「人生に生きる価値はない」からこそ自分で価値を見つけよう
私がよく読む中島義道氏の著書に「人生に生きる価値はない」というタイトルの本があります。
タイトルを見ると、なんと後ろ向きな本だろうと思いますが、中身は中島氏の哲学エッセイ的な内容です。以下は、本書の紹介文から。
人が生まれるのも死ぬのも、苦しむのも楽しむのも、何の意味もない。人類も地球もどうせ消滅するのだから、この世のすべてに意味はない。 だからこそ、好き勝手な価値を創造し、自分の奥底から湧きだす欲望の実現に励むのだ。 「明るいニヒリズム」がきらめく哲学エッセイ。
本書の詳細な内容は譲るとして、今回は「人生に生きる意味はあるのか」ということを考えてみたい。
すべては無に帰する
人生を20年くらい生きていれば、誰でも「人生に生きる意味はあるんだろうか」と考えたことが一度くらいはあるのではなかろうか。
しかし考えたところでそれらしいものは見つからない。
どんな功績や貢献をしたところで、どうであろう。どうせ死んでしまうのであるから意味があるとは思えない。
死んだとしても、功績や名誉が残るのだから意味はあるという意見もありそうだが、それも時間というものの前では無力を露呈するだけなのです。
亡くなってから数十年くらいは覚えている人もいるでしょうが、数百年単位ではもう誰も気にしていない。たかだか300年くらい前の江戸時代に生きていた人でさえ知っている人が何人もいるわけではない。せいぜい教科書に載るような人たちだけで、市井の人々はもはや誰も覚えていない。
さらには、教科書に名前が載ったとしてもそれも一時のことである。いずれは人類も滅亡し、地球も消滅する日が来るのだからすべては無に帰するのである。
150億年に及ぶ宇宙の歴史のなかで、たかだた100年足らずの人生に何の意味があるのであろう。
いや、意味など始めからないのである。たまたま生まれて、たまたま死んでいくだけなのだから。
人生に意味はある?
しかし、世の中には人生に「意味」を見出そうという人が大多数のようである。
「意味」とも「目的」とも言ってもいいと思いますが、そういったものに過剰にこだわる人が多いように思います。
「生まれてきたからにはきっと意味があるはずだ」とか、「私にしかできないことがきっとあるはずだ」といったような。
そう思いたければそう思えばいいと思いますが、どうも自己催眠にかかっているような気がします。私のような偏屈にはどうしてもフィーリングが合わないのです。
「すべてが無に帰す」という冷徹な事実の前には、歯が立たないように思うのです。
人間は「意味ないこと」に耐えられず、常に「意味」や「価値」を与えようとする動物です。それが分からない場合に悩み苦しむことになるのですが、そもそもそんなものは始めからないのではないかと思うのです。
「はなむけの言葉」はなぜ響かないのか
少し話は変わりますが、学校の卒業シーズンが毎年やってきます。卒業式では校長先生が「はなむけの言葉」を贈ってくれますが、これまで何度か贈られているはずなのにまったくといっていいほど覚えていない。
中島氏の別の著書「私の嫌いな10の人々」の中でこんなことを述べています。氏は「はなむけの言葉」が大嫌いとのこと。なぜなら、人生の暗い側面に蓋をして、希望をもって積極的に生きる姿勢ばかりが強調されるから。
はなむけの言葉に「どうせ死んでしまうのですが」を加えるとよく分かると言います。
ご卒業おめでとうございます、どうせ死んでしまうのですが。 みなさんはこの人生の新しい展開に、やや不安を抱きつつも、大きな希望に胸ふくらませていることでしょう、どうせ死んでしまうのですが。 社会に出ると、かつて経験したことのない困難に遭遇することもあるでしょう。そういった時こそ、自らの個性を見失うことなく、困難を糧として、大きく成長する機会にしてほしいのです、どうせ死んでしまうのですが。 何年かの後に、たくましく成長した皆さんの笑顔に会えれば、これほど喜ばしいものはありません、どうせ死んでしまうのですが。 今後の健闘を切に祈ります、どうせ死んでしまうのですが。
「どうせ死んでしまうのですが。」という破壊力抜群のフレーズの前では、どんなに輝かしい希望にあふれる言葉を並べても虚しく感じられてしまいます。
人生に価値はないからこそ・・・
では、どうせ死んでしまう人生に生きる価値はないなら、なぜ生きているのでしょうか。
氏はあとがきで次のように述べています。
人生に(すでに決まった)生きる価値はないからこそ、自分で好き勝手な価値を創造し、それを人生にまるごと付与するのだ。 いかなる枠もなく、自分の奥底から湧き出すものを正確にとらえて、その欲望の実現に励むのだ。
どうせ価値がないのであれば、自分のしたいようにすればいいじゃないかということではないかと思います。
何をしたってどうせ意味はないのだから、逆にどんな意味でも与えることができるのです。
社会の”分かりやすい”、そして”安直な”価値など無視して、開き直って生きればよいのです。そう思うと、少しラクになったような気がする。