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【?】「社会を明るくする運動」というバカバカしい運動に遭遇

先日、駅前で妙な集団を見かけました。

のぼりが立っていたので、また政治家のくだらん街頭演説かとゲンナリしたのですが、近くまで歩いていくと、予想をはるかに超えるものでした。

のぼりには「社会を明るくする運動」という文字が、恥ずかしげもなく踊っており、いい年をしたオッサンやオバハンが、なにやら拡声器でしゃべったり、チラシを配っておりました。

私も駅に入ろうとしたところ、オッサンにチラシを渡されそうになったのですが、薄気味悪かったのでにらみつけてさっさと素通りしました。

しかし、どういう思考回路をもっていれば「社会を明るくする」などという、どうでもよい目標を掲げて、そして考えるに留まらず、さらに駅前で運動するという行動力はどこから出てくるのだろう?

どうにかなると本気で思っているのだろうか?もし、本当に心からそう思っているのならとてつもないバカである。

社会を明るくする必要がどこにある?

そもそも、社会を明るくする必要性がどこにあるのでしょう?というよりは、「明るい社会」ってどんな社会なのでしょう。

先の運動が、どういうことを目指しているのかはよく分かりませんが、想像をたくましくしてみるに、「みんな笑顔が絶えず」「みんなが助け合い」「みんなが和気あいあいと」「家族を大切にし」「幸せに暮らす」社会のような気がする。

小学生くらいが言えばかわいらしいものですが、こんなもの中学生でも鼻で笑うレベルです。それを大の大人がマジメな顔をして語っていたら、知能レベルを疑うでしょう。

「余計なお世話」の一言である。

そして、「みんなが笑顔が絶えない」社会なんて、考えただけでも気持ち悪いと思うのですが、我が国の心麗しき大和の民のうちほとんどの人はそうではないようですね。

「明るさ」を要求する暴力

どうして我が国ではこれほど「明るい」人や「明るい」雰囲気が好きなのでしょう。

例えば、就職活動でも決まって「明るい」「前向きな」人材を企業は求めています。「暗い」人はそれだけで人間失格のような扱いを受ける、

また、テレビのニュースでも「明るい」話題のときは、アナウンサーの表情がパッと微笑を浮かべた顔になって、さらに「明るさ」を演出している。

飲み会に行けば、オッサンやオバハンが肩をたたきあいながら「ワッハッハ」とバカ笑いの絶えないグロテスクな雰囲気が維持されている。

よく考えてみればこうした「明るくしなければならない」というプレッシャーは、とても大きいように感じます。

しかし、「病・老・死」に囲まれた過酷な人生においては、「暗い」ほうが自然ではないでしょうか。

「明るい」のは、相当無理をして演技をしているか、あるいは救いようもなく「鈍感」だからなのでしょう。

バカには関わらないようにしよう

気を紛らすこと。
人間は、死と不幸と無知とを癒すことができなかったので、幸福になるために、 それらのことについて考えないことにした。 -パスカル

パスカルが述べるように、「社会を明るくする運動」などというわけのわからない運動をするような人たちというのは、結局現実を直視せず「臭いものにふた」をしているだけなのである。

そういう「明るい」ことが好きな人にとって、近くに「暗い人」がいると自分が不愉快なんでしょう。だから、暗い人を「矯正」しようとする。結局、自分の好きな環境にしたいというエゴなんですね。

私も近くにむやみに「明るい」人がいると、不愉快でしかたありませんが、その人を変えようという大それたことは考えもしません。

「信仰(明るい社会というのはもはや信仰の領域でしょう)」の自由はありますが、「布教」はやめてほしいものです。

こういうバカには極力近づかないのが正解です。