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社会のための仕事ほどバカらしいものはない

選挙の時期になると、駅前には候補者が立ち並び御託宣を並べ、住宅街には街宣車がけたたましく走り回ります。

国政選挙はですマシが、統一地方選挙のときはもっとヒドイ。引っ切り無しに街宣車がやってきて騒がしいこと騒がしいこと。

「ご迷惑をおかけしています」って言うんなら、こっちに来るな!って叫びたくなる。

私は選挙には関心はありませんが、選挙のたびにいつも気になることがあります。それは、選挙に出る人は、動機はいろいろあれ「社会に貢献」したいという思いを(少なくとも建前上は)持っているだろうけど、そのモチベーションって何なんだろうということです。

みんなのために働きたい?

「社会貢献したい」という考えはいったいどこから出てくるのでしょうか。

そういう意欲にあふれた人ってよくいますよね。みんなの役に立ちたい。みんなのために働きたいと。

また、様々な社会問題に関心をもち、少子高齢化を憂い、差別と闘い、行政改革や教育改革、医療改革、老人介護問題、環境問題などなどについて真剣に議論しようとする。いわゆる意識の高い人。

私にはそのモチベーションがどこから出てくるのか不思議でしょうがない。

政治家が典型的ですが、「普通の」人でもそういう人がいます。会社で働くことで(製品やサービスを提供することで)、社会のみんなのために貢献したいと。就職活動の志望動機みたいですが。本当にそんなことを思っているのか不思議です。

みんなにいい人と思われたいという「虚栄心」によるものか。

それとも、みんなに感謝されることによる「自己満足」を得るためか。

いずれにしても、会社を早く辞めて社会とできるだけ関わりたくないと常に思っている私には想像もできないことです。

人生の時間は有限である

私の好きなセネカの言葉から。

自分自身の人生の利益を知る方が、公共の穀物の利益を知るよりももっと有益なことである。 最も重大な業務に適している君の精神的な活力を、たとえ名誉はあっても幸福な人生にはなんの役にもたたたない役目から呼び戻すがよい。 (中略) きみは何かもっと偉大でもっと崇高なもののを自分に約束したはずである。

これは、セネカの友人で古代ローマ帝国の食糧庁長官といってもよい人物にあてた手紙の一部です。

ほんとうに、会社のため社会のための仕事ほどバカらしいものはありません。「この商品の売り上げを伸ばすにはどうすればよいか」とか、「経費をこれだけ減らそうとか」、「人員をこれだけ減らそうとか」・・・

つまり、「自分自身の人生の利益」とはなんの関係もないことばかりで「偉大で崇高なもの」とはまったく違っている。

人生の時間は有限なのです。その有限な時間を自分のために使わずに、どうでもいいことに使うというのはどういうわけか。社会に貢献するというのは、いかにも立派そうですが、その実自分自身を錯覚をさせているようにも思える。「自分がやらなくては誰がやる」というような。

実は、その人でなくてもまったく構わないことが多い。いなければ別の人がやるだけ。自分がやらなければという思いは、単なるうぬぼれに過ぎないのです。

自分の時間は自分のためだけに使いたい

人生という有限な時間をどうでもよいことに使いたくない。ただそれだけです。社会の役に立ちたいなんて微塵も思いません。

そもそも、社会の役に立って社会に貢献したところで、どうせいつの日か社会は崩壊し、人間は絶滅し、地球は宇宙から跡形もなく消滅するのです(何十億年後の話ですが)

それなのに、どうしてみんなどうでもいいことをさも重大事のように話しているのか不思議でしょうがない。特にいい年をした人は、人生の残り時間も少ないのに、なぜどうでもいいことに貴重な時間を使うのか。まあ、人の自由なのですが。

それを「私」がやるべき理由考えるべき理由などないのです。世の中は、私のような人間は少数派で「社会の役に立ちたい」という人に溢れていますから、やりたい人にやってもらっておけばよいのです。

ジコチューだという声が聞こえてきそうですが、そんなことは先刻承知しています。「人生を半分降りる」ついては「セミリタイア」は、究極のエゴの実現にほかならないのですから。

そして?そして、私はセミリタイアして「人生を半分降りて」自分自身のために生きるのです。