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小学生の人生相談「毎日ゲームをして過ごしたい」は人生の本質を突いている

読売新聞の人生相談欄をよく読んでいます。

だいたい、家族トラブル(不倫、介護、親戚関係)が多いのですが、今日の人生相談欄には珍しい相談者が。

相談者は、10歳の小学生(文体からしておそらく男児)。相談内容は、「毎日ゲームをして過ごしたいけど、お母さんから勉強しなさいと言われてイヤでしょうがない」とのこと。

「なんだ、そんな馬鹿げた相談かよ」と思うことなかれ。この悩みは、意外と人生の本質を突いたものではないかと思うのです。

好きなことだけしたい

この小学生の根本的な疑問は、「なぜ好きなことだけしていたらダメなのか」ということ。

ゲームはしたいし、ユーチューブの動画は見たいけど、勉強はしたくない。勉強をしていると気分が悪くなって息苦しくなるらしい(病院で見てもらったら異常なしとのことで、律儀に診断結果も相談に載せている)。

できることなら、大人を含めてみんな「好きなことだけして生きたい」と思っているはず。でも、現実問題として難しいからみんな苦しんでいるのです。だから、この小学生の思いはバカバカしく思えて、実は人生の本質を突いている。

「なぜ、好きなことだけしていてはいけないの?」と。

では、これに対する回答はいかに?

回答していたのは「精神学者」の先生。要点をかいつまんで言えば、つまりは「アリとキリギリス」なんだそう。

好きなことだけしていると「冬のキリギリス」になるから、アリのように働いて準備をしておくことが大事なんだと。さらにいえば、まあ、四六時中働けというわけではなくて、仕事(勉強)と遊びのバランスが大事と回答していました。

まあ、結局好きなことばかりしていると、後で痛い目に遭うぞ。だから、遊ぶののもいいがやることはやっとけよ、ってところでしょうかね。

覚悟があれば好きにしてもよい

うーん、小学生に対する回答とすると、こんな感じなのかもしれません。でも、キリギリスの生き方も一概にダメだということはできないようにも思います。

一度きりの人生なのだから、好きなことだけやりたいんだという思いを否定することはできない。それで、あとで苦しいことになっても、それは自分が選択したものなのだからどんな結果であろうと引きうける覚悟があればよいのです。

好きなこと、やりたいことをやった結果、刑務所にぶち込まれても、野たれ死んでもいいんじゃないかなと思います(私はイヤですが・・・)

生き方が問われているといってもよい。

好きなことをして生きるのはかまわない。けれども、それによって生じる結果には責任を持ってすべて引き受けなければならないのです。「自由」であるということは、「自己責任」と表裏一体なのですから。

私が答えるとしたらこんな感じでしょうか。

セミリタイア予備軍?

私が目標としているセミリタイアも、できるだけ好きなことをして(嫌なことをしないで)生きたいという思いを近似的に実現できるものではないかと思っています。

もちろん、「自由」を得る代償として、生じうる結果についてはすべて責任を取るつもりです。

セミリタイアを目指す生き方は「アリとキリギリス」でいうと、アリになるのかな。徹底的にアリに徹したあとは、キリギリスに変身する(?)感じなのかもしれませんが。

この小学生もこの悩みを育てていった結果、将来はセミリタイア志願者になっているかもしれない!?