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【書評】『ウソつきの構造-法と道徳のあいだ』であぶり出されるこの世の実態とは?

最近読んだ中島義道氏著の「ウソつきの構造-法と道徳のあいだ」をご紹介します。

[rakuten no="9784040822792" shop="book" kw="ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書) 中島 義道"]

この本で問題としているのは、「振り込め詐欺」や「悪徳商法」のような他人に危害を加えようとする類のものではありません。

では、どのような「ウソ」を問題としているのか?

私がとくに本書で問題にしたいのは、法に則ったウソ、法のもとに保護されるウソ、いわば「法に守られたウソ」であり、興味深いことに、これは反転図形のように、そのまま「法に守られた真実」に反転しうる。

本書で特に問題として扱っているのは、例えば「森友・加計問題」といった外形的には問題がないというように整合性を作るために発生したウソのことです。

法律が問題にするのは外形的要素、つまりある人物が言ったこと、為したことであって、内面的な要素は切り捨てているところから発生するウソです。

現代社会、特に日本ではこうした「法に則ったウソ」がそれこそゴキブリが這いまわるように繁殖しています。

そんな中で、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょうか?

いろいろなことを考えれさせられる本書の内容を少し紹介したいと思います。

ウソに塗れた法治国家

思い起こせば、「森友問題」「加計問題」で世間が紛糾しましたが、あれも結局なんともあやふやのままに終わってしまいました。

どう考えても不自然なことばかりなのに、「法に触れない範囲」では問題がないということで済まされてしまったのです。

明らかに変だ、不自然だと言いたてたところで法律上問題がない、つまり外形的には法に触れていない、というストーリーを作るためにウソが発生するのです。

森友学園への国有地売却に関しては安倍首相も昭恵夫人も何の関与もなく、また、財務省理財局の文書改ざんに関しても、官邸も財務大臣も何の関係もなく、すべては佐川理財局長の判断でなされたという誰も納得できない「法に守られた真実」を確認して、さしあたり幕が下ろされた。

本書では、ウソを守るためにさらなるウソが展開されるメカニズムが分析されています。

この構図は加計問題、そして、本書では触れられていませんが、「桜を見る会」の問題でもカーボンコピーのように似たような展開となっています。

例えば、国会議員から質問を受けたその日に名簿をシュレッダーにかけていたことが判明すると、「シュレッダーが混んでいて、たまたまその日に順番が回ってきた」という誰が考えても不自然極まりない説明がなされました。

「そうだ」と言われれば、そのこと自体は法に触れていないし、現実としてあり得なくはない(確率的にはかなり低いが)ために、ウソであってもそれ以上追及ができないのです。状況証拠に過ぎないということです。

これも最初のウソがあくまで「本当」と言い張るためについたさらなるウソです。こうしてウソを守るために無理につじつまを合わせたウソをつくというメカニズムでウソは拡大していくのです。

損か得かでしか判断していない

では、なぜこのようなウソをつくのでしょうか。

それは、ウソをついたほうが得だからということに過ぎません。安倍総理自身、夫人、安倍政権、自民党にとってトクになるからなのです。真実は二の次になっているのです。

これは政治に限ったことではなく企業でも同様です。企業も何か不祥事があると最初は何事もなかったかのように振る舞い(ウソをつく)、それが隠しきれなくなるとクルっと態度を豹変させて「心からのお詫び」をする(これもウソ)。

(何か不祥事が起こると)まじめ腐った表情でお詫びや心からの反省を繰り返す光景が、途切れることなくテレビ画面や新聞紙上で見られる。 (略) 誰も深々と頭を下げる人々が心から反省しているとは思わない。 一種の儀式であり、いまとなってこうすることが(企業イメージを保つためには)トクだから、そうしないとソンになるから、というあからさまな功利主義が見え見えである。

この文脈でアイドルグループTOKIOのメンバーYが事件を起こした際の他のメンバーの行動の分析は秀逸である。

TOKIOのメンバーたちの、おそるべき極悪犯罪をなしたかのような「神妙な態度」である。Yを除いたメンバーたちはほとんど憔悴しきった顔つきで語っていた。 どう考えても、その苦渋に満ちた顔つきには、もうTOKIOとして、さらにはミュージシャンないしタレントとして仕事ができないかもしれないという危機感がべったりとこびりついている。 被害者の女性を慮っていないわけではないが、同時に、ひたすら自分たちの行く末を考えていて、どうすれば最も効果的に視聴者の反感を回避できるかを考えている。

真実を求める態度

こうしたウソと真実について考えていたのが哲学者のカントです。

カントはどんな状況でも「内面的真実」を求めなければならないとしました。いかに困難であろうと、いかに迫害を受けようとも、「トク」のために真実を犠牲にすることは「根本悪」だとしました。幸福を真実性よりも優位に置くという転倒した人生は生きるに値しないのです。

もちろん究極的な場面では、「ウソ」をつかざるを得ないこともあるでしょう。

「彼はユダヤ人か?」と聞かれて、「そうだ」と答えれば彼がガス室送りになることが分かっている場合でも、カントによればそこで「違う」とウソをつくことは無条件には肯定されないのです。

こうしたケースでは、おそらく多くの人がウソをつくでしょうが、それを当たり前だと思ってはならない。真実よりも優先してしまったことをよく自覚する必要があるのです。

公務員や会社員のように組織の属していると役所や会社の方針に逆らうことは至難の業であり、時に「体裁のいいウソ」をつくことを強要されることもあります。(「桜を見る会問題」で苦しい答弁をさせらていた公務員の人が典型)

それを平気でやるような人、なんの良心の呵責もない人は道徳的に悪だということです。真顔でウソをつき続ける人間のあさましい姿こそ「根本悪」なのですから。そして、そんな人間のなんと多いことか!

普段感じていたモヤモヤが本書を読むと見事に言語化されていて、なるほどと思うことが多くありました。そして、この社会は真面目に生きるには値しないなと改めて納得した次第です。

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